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『笑いながら死んだ男』(講談社文庫)
著者=デイヴィッド・ハンドラー
分野=ハードボイルド・ミステリー
人称形態=一人称(主格表記は『僕』)

  無双のゴーストライター、ホーギーを主人公とするミステリー・シリーズ。全8作が刊行され、本作はその第一作である。
●ストーリー
  デビュー作の成功でわが世の春を謳歌した作家ホーギー。だがどうしても2作目が書けず、すべてを失う。40歳を目前にしたいま、彼に残っているのはニューヨーク西93丁目の古アパートと自意識、そして人語を解する?バセットハウンド犬のルルだけだった。
  わずかな蓄えさえ尽きかけたある日、エージェントからあろうことかゴーストの打診が舞い込む。自伝を出すのはかつて全米を熱狂させたコメディアン、ソニー・デイで、自身を事実上の引退に追い込んだ〈ナイト&デイ〉解散の真相、すなわち政界入りも噂されるハリウッドの大物ナイトとの決定的仲違いの理由を暴露するのだという。「まさかこの僕がゴーストなんて。まさか」と自嘲してみせるホーギーだが、目の前に迫る破滅も冷静に理解している。愛犬ルルの勧め?もあって、彼とルルはビバリーヒルズにあるデイの屋敷に赴き、インタビューと執筆の日々を送りはじめる。
  かつて自身も名士だった経験から妥協したら負けと実感しているホーギーと、みずからの帝国の中で王として振る舞うことを当然とするデイ。二人は衝突を繰り返すが、やがて親子にも似た断ちがたい絆が生まれる。
  だが、解散以来数十年秘匿されてきた秘密はいまなお巨大な破壊力を持ち、暴露しようとする者たちに死をもたらす。文字通りぼろぼろになりながらも作家としての誇りがホーギーを突き動かし、一歩ずつ真相に迫っていく。

●文体について
  一人称ミステリーに王道があるとすれば、本作(本シリーズ)はまさにそれに当たる。地の文での笑い(嗤い)を湛えた状況観察、生き生きとピントの合った人物描写、そして気の利いた当意即妙のセリフの数々。読者を楽しませるための要件を理解するプロが自身も楽しみながら書いた最高級のエンターテインメントである。巻を重ねるごとに筆のこなれが増すこのシリーズだが、第一作ではまだ作品世界が固まりきっていない部分もあり、それゆえ作者の資質というものが直に窺える。作者ハンドラーはしっかりとした人間観察ができる第一級の作家と感じられる。
  それにしてもキャラクターが魅力的。主人公ホーギー、元妻メリリー、LA担当の少年警視ランプ、NY担当のヴェリー警視(lieutenantに補佐という意味があるらしく英和辞書上では警部補だが、大都市警察本部殺人課の主任捜査官という役職は警視か警視正に当たる。語感重視なら警部。ロス市警殺人課のLT. COLUMBOは、やはり「コロンボ警部」と呼称するのが正しい)らが、なによりも彼ら自身が発する言葉(セリフ)によってこの上ない魅力を与えられている。人語を解するルルもしかり。ホーギーの翻訳?によって彼女の気持ちまでもが読者に伝えられ、動物好きにはこたえられないほどだ。
  一度作品世界に没入すれば、彼らそれぞれが得がたい友人・仲間に思えてくる。もちろんそれこそがシリーズ小説の要件なのだから当然といえば当然なのだが、脇役をもおろそかにせずバランスのいいキャラ配置をしていく腕はさすが。まさにお手本と言える。
  ホーギーは英国趣味をひけらかしぎみの優男で、危機に陥ったときほどぺらぺらよくしゃべる。しかもそのセリフが警句・失笑・爆笑・意味のすり替えとなんとも楽しい。しかし、本作の最大の魅力は、一見軟弱者のホーギーが実は「超」がつくほどハードボイルドな意地の貫き方をするところにある。第一作からしてそれは明らかで、猛獣のような大男の暴行に遭い入院、さらに縛り上げられ鞭による拷問、脅迫まで受けながらも彼は追及をやめない。その動機がなによりも誇りにあるのだから、読者は彼を好きになるしかないのだ。「小説の主人公はいかに造形すべきか」へのひとつの解答がこのシリーズなのである。

※一人称では向かうところ敵なしのハンドラーだが、ひとたびそこを離れると1次落選レベルにまで筆力が低下してしまう。2006年夏に刊行された『ブルー・ブラッド』はまさに「複数主格疑似三人称」の悪例で、同格の主人公二人(小太りの映画評論家とリゾートの女黒人刑事)による実質一人称の記述が交互に繰り返され、前章の主人公が次の章では脇役に回るという奇矯な(要するにどうしようもないほど下手な)記述スタイルになっている。終盤ではホーギー・シリーズを彷彿とさせる筆の滑りも見られるとはいえ、一人称しか書けない作家がそれ以外に手を出してしまったこと自体が致命的。もちろん、日本国の出版社がこの種の愚作を本にするのはもはやおなじみ、何の疑問もないが、本国アメリカで出版可能と評価されたことには大きく首をひねらざるを得ない。ここはア・バオア・クー攻略戦のさなかに戦艦〈ホワイト・ベース〉操舵士官のヤシマ少尉が口にしたセリフを借りるしかなさそうである。
 「こちらもそうだけど、向こうもうまくいっていないようね」