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『聖少女』(新潮文庫)
倉橋由美子著
分野=純文学ミステリー
人称形態=一人称(主格表記は『ぼく』)

  作者みずからが「自分の最後の少女小説」と評した作品。文体の魅力に加えて「ひとつの謎」が最後まで読者をつかみつづけ、その意味ではミステリー作品とも定義できる。
●ストーリー
  かつて高校中退者ながら安保闘争を指導し、いまはT大で高等数学と戯れる主人公。 合衆国留学を試みるが過去が災いしてなかなかビザが取得できず、中途半端な日々を送っている。
  そんなある日、「ぼく」は新聞紙上で忘れられない名を見つける。過去に一瞬だけ遭遇し強烈な印象と渇望を残して去っていった極上品の美少女・未紀。彼女は暴走死亡事故を起こしてみずからも重症を負ったのだという。「ぼく」は婚約者の名目で病院を訪れ、記憶をなくして「まるで壊れた自動人形」のような状態にある未紀の恢復に立ち会うことになる。
  未紀が自我を取り戻しはじめたころ、「ぼく」は彼女から一編の手記を渡される。それは小説の文体で書かれた「物語」だった。だが内容は衝撃的で、「ぼく」がどうしても忘れたい「恥」の記憶をもいやおうなく呼び覚ました。
  手記に書かれていることは事実なのか。記憶が完全には戻っていない彼女にもそれはわからない。未紀に対する欲望――それはこの上ない魅力を放つ未紀の「存在」を理解しつくしたいという観念の欲求だった――と恥の記憶の中で「ぼく」は迷走する。現実とも幻想ともつかない出来事、そして回想。やがて明らかになる事実はかなしく、「ぼく」に対しても拒みようのない決断を迫るのだった。
●文体について
 「強力な知力を持つがゆえに脆弱さもはらむ青年の口調」という一人称文体がみごとに確立されている。一部の男性読者は「この『ぼく』はまさに自分だ」と感じるはずで、「本物の作家が性差を越えて示すとてつもない洞察の実例」と断言できる。もちろん、セリフや描写の筆致も最高品位、知的な笑い(なかには痙攣的爆笑を誘うものもある)も多い。読者からの偏愛を誘いうる文字通りの文学作品ということができる。
  本作は一人称作品である。読者はすべての事象を「ぼく」の主観を通してしか知ることができない。そこに巧妙な嘘が含まれているのだとしても判定は難しく、その構造、すなわち「書いてあることを信じるしかない立場に読者を置く方法」が、ある意味超現実的ないくつかのエピソードを成立させている。一人称でしか書けない必然性を持った、十分に計算された骨格の作品なのだ。
  語り手である「ぼく」にとどまらず興味深いキャラクターが数多く登場するが、真の主人公は未紀であり、作品の根幹を成すのも「エキセントリックだが本質的には誠実な未紀という少女のかなしげな横顔」である。
  確かに反社会的な記述は多い。高校生の「ぼく」は仲間(サドの著作をぼろぼろになるまで読み耽る『公爵』、生肉を常食する性交マシーンの『エスキモー』、内的モラルが口癖のグループの恥部『ツトム』)らと強盗・誘拐・強姦などの「刑期という正札のついた犯罪」に邁進したりする。そして「ぼく」が唯一恥と感じるのは「かつて社会の解体を望んだのは存在的な恨みの発露でしかなかった」という出自の卑しさについてだけなのだ。曖昧な状況ながら強姦され「ミルク状星雲」を注ぎ込まれた少女が見せた涙への悔恨などは存在しない。ただし、これらの犯行記述は作品の本質と無関係な飾りのようなものでしかなく(過剰なほどの魅力をたたえた「飾り」ではあるのだが)、そのあたりの「あら」ゆえに作者はあえて「少女小説」と評したのかもしれない。
  いずれにせよ、「高度の倫理を備えるがゆえ結果的に犯罪者にはならないが、世間の掟や『利権談合院において地方選出の卑俗な政治利権業者どもが決めた法律なるもの』など屁とも思わない精神の貴族が同族に向けて書いた作品」であることは事実。他と同じであることに安寧を見いだす大衆が目にすべき書物ではない。
  倉橋先生は唯一の作家だった。その存在が失われてしまったいま、この国の出版業界が生き延びなければならない理由などないのかもしれない。