本文へジャンプ
『女刑事の死』(ハヤカワ文庫)
著者=ロス・トーマス
分野=トーマス印ミステリー
人称形態=真性三人称(プロローグを除きすべての場面に主人公が登場)
  名匠ロス・トーマスの作品の中では日本国で最も売れたとされる作品。当初「ミステリアス・プレス文庫」として刊行、その後一般のハヤカワ文庫で復刊された。
あらすじ
  かつて情報機関筋に関わった経験を持つ主人公ベン・ディルは、ある上院議員の下で「調査」の任に就いている。
  38歳を迎えた朝、ディルを凶報が襲う。故郷で殺人課刑事となっていた妹が殺害されたのだ。彼は急いで帰郷するが、挨拶に立ち寄った上院議員事務所で「逮捕できれば大手柄となるディルの幼馴染の武器商人」との接触を命じられる。
  十数年ぶりの故郷。知己との再会、葬儀、そして意外な事実。次々と登場する「ひと癖ある人物」たちと関わりを重ねながら、ディルは事件の真相に迫っていく。

文体について
  まさに名匠の名に値する「究極の真性三人称記述」が堪能できる一作。作者は常に主人公との距離を保ちながら、誠実に、生き生きと「笑い(嗤い)」を秘めた記述で事実を提示していく。独特の観点から語られるこの上なく魅力的な人物描写、そして、声が聞こえてくるほどリアルで機知に富んだセリフの数々。文章を読むことが快楽になりうる典型がここにある。それこそ最高級ウイスキーを味わうかのように一行ずつじっくりと読むのが正しい作法。ただし、トーマスのおもしろさ、すなわち真性三人称の醍醐味が理解できるように「なってしまう」と、凡百の国産作家が書いたものなどまずくて食えない事態に陥るのも確か。真の快楽を知るには本流から外れる覚悟が必要となる。
  本来堂々と「主人公が登場しない場面」が書ける真性三人称だが、本作では例外的にすべての場面に主人公ディルが登場している。これは作者トーマスのちょっとしたいたずらのようで、例えば終盤上院議員らがディルに隠れて談合する場面で、わざわざ天井裏に仕掛けたテープレコーダーという小道具を使ったりしている。その点で、「真性三人称が備える自由度の高さ」を学習するのに最適とまではいえないものの(単一主格がわかりやすさにつながり、それがいちばん多く売れた理由といえるのかもしれない)、絶妙の立ち位置=人物との距離感、描写+セリフの魅力は健在で、教材としても十分な価値を持つ。
  最愛の妹を殺された主人公。二流の作家ならその激情を節操なく書き散らすところだが、名匠は決してそんなことはしない。唯一心情が明かされるのは、数百万ドルの贈賄を蹴った上での「おれの要求は妹を殺した奴だ」のみ。簡潔であるがゆえの凄みをはらむ。そして最終場面。事態の一応の終局を経てワシントンDCの自室に戻った彼はついに落涙する。しかし、その局面ですら作者は客観記述から逸脱しない。抑制された筆致で情感を込めて描かれるクライマックスは読者にも涙を強いるが、それはみごとなまでに貫かれた矜持への感涙でもあるのだ。