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 ご来場ありがとうございます!

「たくさん書ける」は要注意です

 応募作の多くは見た目と中身がとてもよく似ています。

・1行空けでつなげられたそれぞれのブロックがどうにも短く、わずか数枚の分量しかない → 記述体力がとにかく不足している。
・会話のほとんどが心底どうでもいいセリフである → キャラの人格表現につながる生きた言葉が書けていない。
・地の文のほぼすべてが単なる背景解説(含む自分語り・回想)である →  それ以外の事柄を書かないと小説にならないことが理解できていない。


 いうまでもないことですが、以上の特徴を持つ作品は「小説が書かなければならないことがほぼなにも書かれていない」以外の評価を得られません。つまり、「平均以上の文章力を持つ人間なら誰でも書ける、小説に見えなくもない体裁・分量の文字列」でしかないから、1次で早々と落選するわけです。
 とはいえ、傾向が顕著ということは解決策もまた単純、要は「章を設けて全体をきちんと組み立て、主要場面には最低でも20枚を費やし、そこでは一流の人間たちの生きた言葉のやりとりを構成要素とする『描写主体の場面記述』をし、工夫のない駄解説を書かなければいい」だけの話なのです。そうすれば、誰はばかることなく「自分は上位5%に位置する書き手」と主張できるようになります。
 ただし――否定的接続詞の連用で恐縮ではありますが――やるべきことは単純・明快であっても、いざ実行となると「大きな困難」に直面することになるのも事実です。誰でもできる容易な書き方から一歩踏み出す、すなわち、「それまで半ば無意識に逃げてきた事柄」を書けるようにするには質的な変化(脳内への新たな回路の増設)が不可欠で、どうしても「当初は苦痛を伴う年単位の練習時間」を経る必要があるからです。
 「たくさん書ける書き方」を捨てて、「こんなんじゃ1行も書けない!」と途方にくれるような高いハードルをみずからに課さなくてはいけません。お手本にしたい作家の文体を模倣しながら、一日にわずか数枚しか絞り出せないような書き方をしてみるのです。
 実際問題、それを完遂できるのは文字通りの少数派で、当オフィスがご提供できるのも「設定すべき具体的目標」「目標と現状との違い」「有効と考えられる練習方法」などごく基本的な事柄にとどまるわけですが、愚痴をいっても始まりません。こうしてご来場いただけたのも何かの縁、多くの応募作を手にした結果見えてきたあれこれを、執筆の手懸かりとして、まずはお持ち帰りになってください。


顕著な傾向が存在します

●「応募者が理解していて当然の作法」の代表が人称原則です

 「人称と視点は違う」とか「三人称は主人公目線で書かないとダメ!」など、これについては実にさまざまな主張がありますね。入門書や書き方指導サイトの数だけ異なった考え方があるという奇妙な現象は「正解」が存在しない小説ならではともいえますが、作品の構造・骨格にかかわる重要な問題であるため、応募者それぞれが自分なりの理解・実践をしないと「小説としての要件」が満たせなくなってしまいます。
 当オフィスは「作者の立ち位置」というものを重視し、人称形態を以下の3つに区分しています。
・一人称
 私はとても腹が立った。怒りのせいで視野が赤く染まり、殺す以外にないと決意した。
・一人称的三人称=疑似三人称(一人称の主語を「私」から「彼もしくは彼女」に換えただけのもの)
 激昂した彼の視野は怒りのせいで赤く染まり、殺す以外にないと決意した。
・本格的三人称=真性三人称
 彼の表情が激変した。片頬が微かに痙攣し、相手を凝視する両目に異様な光が浮かんだ。


一人称 
 演劇が上演される劇場を思い浮かべてください。その舞台に立つ俳優の立場で周囲の演劇空間を書くのが一人称です。
 いわずもがなではありますが、一人称の特徴はすべての地の文に主人公の主観を反映させていい点にあります。それによって口調を前面に出した個性的な文体とすることができますし、なにより「禁則」を意識しないで自由に書けるのが最大の利点でしょう。主人公が知覚できることであれば、なにをどう書いてもいいわけですものね。
 ただし見落としがちな観点もあり、それは「一人称でも三人称的客観記述は必要」というものです。
 1次で落選してしまう一人称作品に共通する傾向として、「こなれた一人称おしゃべりだが『他者』に対する関心・洞察は絶無」が挙げられます。これはもちろん自分にしか興味を向けられない書き手の余裕のなさに問題があるわけですが、作品の印象自体も恐ろしく貧しいものになってしまいます。同じ舞台に立つ仲間なのに、主人公以外の登場人物の外見・表情・口調の描写にいっさい目が向けられないため、彼らが内面を持たない記号としてしか存在せず、主人公の空虚な自分語りだけが聞こえてくるわけです。
 平均以上の文章力を持つがゆえに陥りがちなその罠を回避する方法は、「客観記述でも対象の内面を伝えることは可能」という観点を持ち、「他者」の思惑・意図への洞察を示すことだと思います。
 例えば映画『踊る大捜査線』の終盤でデスクに隠した辞表をすみれさんが無言で破るシーンがありますが、その複雑な笑顔の奥に誰が存在しているのかを理解できない観客はいません。小説でもそれと同じ描き方が可能で、状況説明+行動+表情の描写という三人称的客観記述だけでも、かなりのことが伝えられます。もちろん、そこにセリフが加わるのが普通で、さらに一人称なら主人公の「彼女は○○と感じているに違いない」との洞察を付け加えることさえできるのです。表現として十分すぎるほどだとお感じにはなりませんか? そして、その洞察が的確で人間性に富んだものなら、主人公のキャラクター設定、ひいては作品そのものがとても豊かなものになり得ます。
 繰り返しになりますが、「対象の内面に入り込まないと気持ちや考えは書けない」は誤りです(最近目立つ「複数主格一人称=次々と異なる『私』『僕』『俺』が登場する、容易には理解しがたい人称形態」が書きたくなる理由も、やはり表現力不足にあるのでしょう)。真性三人称の書き方にも通じる俳優・演出家としてのセンスは、一人称を書くうえでも必要なのだと思います。「それぞれのキャラにどんなセリフを与え、どんな口調・表情で語らせれば読者により効果的に伝えられるか」の吟味がなされていない作品は「貧しい」という理由で落選するのだと考えてください。

疑似三人称
 作者自身も舞台に上がり、ただし演技には加わらず、主演俳優の背後に影のように付き従いながら書いていく、すなわち登場人物の主観・意識を借りて記述するのが疑似三人称です。
【一般的な言い方をするなら「三人称単一視点」ということになり、劇の最初から最後まで作者が主演俳優の背後にとどまるのであればその表現でもOKといえるのですが、既刊物・応募作を問わず作者の居場所がころころ入れ替わるものが多く、それでは「単一視点」と呼べません。「三人称単一視点〈複数〉」では意味をなしませんから、ここはやはり「疑似三人称」(作者の立ち位置・視点が入れ替わるものは『複数主格疑似三人称』)と呼ぶことにします。もちろん、「疑似」という単語が否定的印象を与えるのは承知しており、当オフィスはこの書き方を「本物の三人称ではない」と考えています。主語を換えただけで三人称になるなら、誰も苦労しませんものねえ】
 疑似三人称の書き方は「一人称で書いてから最後に主語を『私』から『彼(もしくは彼女)』に置換する+アルファ」です。別の言い方をすると「地の文が作中人物の主観で書かれていれば疑似三人称」ということになります(見極めポイントは「自由間接話法以外の通常の地の文で『こっち・こちら』と書かれているか」です)。実に単純、一人称が書ければ疑似三人称を書くのも容易で、実際にこの人称スタイルの応募作が非一人称グループの大多数――ひょっとすると95%以上――を占めます。これは、本来の意味における三人称が書ける応募者はほとんどいない現実を意味し、確率のうえでは、あなたがお書きになった三人称もその内実は一人称だといえるのです。
 書き手・読み手双方への負担が少ないのが疑似三人称の特徴で、それゆえ主流となっています。しかしその一方、適用されるルールが一人称と同じであること、つまり「主人公が知覚できることしか書けない」を忘れてしまう応募者も多く、「この程度の基本は理解してから応募しないとねえ」が正直な感想です。
 舞台の外の事象は「主人公には知覚し得ない」という理由で書けません。作者は舞台上の俳優の陰にいるのですから、おのずと「わかること」の範囲も限定されるのです。同様に、主人公(もしくはその時点で憑依している俳優)以外の人物の内面を断定することもできません。人間には他人の心を読む力は備わっていないのですから。「ひとつの作品(もしくはひとつの章)の中で内面を断定していいのは、登場人物のうちのひとり(憑依対象)だけ」を徹底してください。
 総じていえるのは、「疑似三人称を書くこと自体は容易だが、その分禁則も多い」でしょうか。一人称との違いは「主人公は語り手ではない」程度にとどまり、メリットは「一人称では違和感を誘う主人公の容姿についての記述が疑似三人称では可能になる」ことくらいなのです。この「疑似―」はいわば「背後霊形式」と定義でき、主人公の背後にぴったり密着する位置に作者がいるがゆえ主人公の内面を深く描けるが、一方で「主人公が知覚できることしか書けない=主人公が登場する場面以外は書くべきでない」という制約を受けます。
 つまり、「疑似三人称で主人公以外の人物に憑依すること、すなわち複数主格には反対」が当オフィスの本音ということになります。客観記述でも十分に伝えられるのに、なぜわざわざ複数主格化し、内側からの独白的表現をしなければならないのでしょう。
 しかし現実は低きに流れ、「章分け(舞台に喩えれば『暗転』ですね)すれば主人公以外の登場人物に憑依しても可」が業界の常識となっています。これは本来読者に対して受け入れがたい違和感を与える書き方で――初めてこの書き方に触れたときの感覚を思い出してみてください――そもそも、実質が一人称である疑似三人称で「複数主格」を容認すると「だったら『複数主格一人称』でもOKじゃん」に反論できなくなってしまうんですけどねえ。
 登場人物の「判断」を書かないとおもしろくならない戦記ものなどでは、『南シナ海/グリニッジ標準時○月○日○○時』などの章分け以上の明確な区分を設けたうえでの「複数主格」が意味を持ちますが、一般の小説、特に応募作では、実質が一人称であることを潔く受け入れ、その制約の中で技量を示すことが大切だと思います。
※もし「複数主格疑似三人称」で応募するのなら、「誰が主人公か」だけは明確にしてください(長編の場合のみ。100枚以下の中・短編での複数主格化はたぶん不可能で、「誰が主人公だかわからない=小説としての要件を満たしていない」との判断につながります)。

真性三人称
 作者が観客席に留まり(ただし表情がよく見える最前列近く)、舞台上の主人公に注目しながら全体を描いていくのが真性三人称です。例文の「彼の表情が―」でもおわかりいただけるように、立ち位置が異なることは「なにを書くか」にも決定的な違いをもたらし、基本的にすべてを外側から書くことになります。
【いわゆる「神様視点」ですが、多くの人が「章分けすらせずに憑依対象を次々替える疑似三人称」と誤解しているため「神様―」はもはや用語として使用不能で、ここでも「真性三人称」という妙な造語を使います】
 書き方の根本は映画シナリオと同じなのだと思います。小説の文体でシナリオを書いたうえで、映画ではカメラマンや俳優の担当となる情景描写・人物表現の「肉付け」をすると真性三人称小説になります。内面をそのまま書くのではなく、セリフ・口調・表情・しぐさなどを生き生きと描写しながら「読者に推察させる」より高度な表現を指向する書き方だということができます。
 ただ、この「生き生き」の部分のハードルが高く、作品世界がしっかりと見えているがゆえの確かな描写力と豊富な語彙(特に比喩にかかわるイメージ)、さらに説明さえも小説記述にしてしまえるだけの「地の文の声」がないとまっとうなものは書けません。またそれ以前に、一人称(含む疑似三人称)の主観記述に慣れてしまった応募者(含む現役国産作家)では「そもそも客観記述ができない」場合も多いようです。
 しかし、読者に違和感を与えない形で「主人公が登場しない場面」を書こうとするなら、この真性三人称を会得するしかありません。登場人物に依存しない書き方といえばいいのでしょうか。つまり「素性を明かさず決して『私は』といわない書き手の存在」という核があるため、誰が登場しているかが語り口に影響を与えないのです。誤解を恐れず表現するなら、「真性三人称は究極の一人称」となるのかもしれません。
 補足しておきますが、真性三人称でも主人公の内面を断定することはできます。「○○と彼(もしくは彼女)は思った」は完全にOKで、主人公以外に対しても「まるで○○といいたげに」が使えます。さらに、作品冒頭と大きな転換点の直後には「作者自身の自己主張」さえ、ある程度は認められるのです。難しい書き方ですが、登場人物に束縛されないという点で、作者の自由度はむしろ大きいとさえいえます(この段落における主張の根拠は、すべて「名匠ロス・トーマスがそういう書き方をしているから」です)。
 読者の側に一定以上の読解力を要求する点で出来のいい真性三人称ほど一見地味な印象になるリスクがあり、選考にあたる人間の適性を信用しきれないのなら――消費者=読者をばかにして「どうせ理解されない、売れないのだから真性三人称など書いても無駄」とうそぶく編集者がいるのは事実で、そんな人間が「授賞作以外は読むのが苦痛だった」と選考委員にいわせるような低レベル作を最終選考に残したりするのでしょうねえ――応募作には不適ということもできます。しかし、真の作家力が問われる書き方なのは否定しようがなく、本当に実力をつけたいとお考えなら「カメラワーク(地の文での情景描写)+セリフ(会話)+俳優の演技(地の文での人物描写)+音楽(地の文での抑制された内面描写)」の4つの要素のみで成立する「ナレーション=モノローグに頼らない普通の映画の語法」、すなわち真性三人称会得をめざしてみてください。一度「距離感覚」を身につけられれば、それ以降はあらゆる人称形態を自在に、伸び伸びと書けるようになるはずです。
 いずれにせよ――真性三人称への移行が一朝一夕にはいかないとしても――人称原則に対する理解は本来誰もが自然に身につけているものなので、わずかな指摘さえあれば、疑似三人称での違反部分修正は容易です(削除、および「憑依対象の目を通した記述への変更」をすればいいだけですものね)。そしてなにより、そんな推敲作業を一対一でお手伝いできる校正は、「きわめて有効な編集手段である」といえるように思います。 


ライトノベルを口実にしてはいけません
 ラノベはいわば出版不況が生んだ徒花で、とても特殊な分野なのだと思います。したがって、そこで用いられるルールはラノベでしか通用しないものが多く、他の一般新人賞にラノベ体裁の作品で臨んでしまうのは、あまりに不用意な――努力をみずからどぶに捨ててしまうような――行為といえます。
 大手主催の一般文学賞で選考通過をめざす場合には、以下の点に留意する必要があります。
・変則(混在)人称はNGです
 ラノベでこれがOKなのは「書き手に『統一人称で書け』といってもできない場合が多く、もはや誰も要求しない」+「ラノベ消費者の多くは実質一人称の主観記述しか読解できない」からで、一般賞での常識は「ひとつの作品はひとつの人称で書く」です。一人称を選択するなら「主人公が登場する場面しか書けない」という大原則を受け入れる必要があり、主人公が登場しない場面も書くのであれば、一人称以外を選ばなければいけません。
 純文学の既存作家が変則人称の作品を書いているのは事実ですが、それについては「有名作家だけに許されるお遊び」、もしくは「きちんとした三人称を書ける作家がより困難な書き方を模索した結果」と考えてください。「三人称なんて書けないし面倒くさい。変則にしたほうがラク」が本音なのではありませんか? 力不足を糊塗する意図で書かれた変則人称作が評価される可能性はありません。すべての下読みが即断で落選させるはずです。
※「エンターテインメント・純文学分野のラノベ化」という傾向が顕著になりつつあるようで、「複数主格一人称+一部あらすじ三人称」といった「非ラノベ変則人称小説」が普通に出版されるようになったとも聞きます。それを是とするなら、上記指摘は「完全な誤り、時代錯誤」ということになります。
・1行空けの乱用を避けてください
 ラノベの1行空けはコミックにおける枠線の代用なのかもしれませんね。しかし本来は「ひとつの章の中で時間的・空間的断絶が生じる区分点」に入れるべきもので、乱用は負の評価を誘います。「1行空けることでどこか意味ありげな独特の効果が生まれる」と感じるのは初心者だからです。無意味な1行空けをやめ、段落間に飛躍・断絶を生じさせない「文意の流れ」を構築してください。
・箇条書きはお勧めできません
 ほぼすべての段落が1行で収まる文字数の体裁、つまり句点を入れたらすぐに改行してしまう書き方が「箇条書き」です。
 この書き方がラノベ以外にも広がった理由のひとつは、「枚数を水増しできるから」だと思います。20字×20行で100枚の文字数でも、1行40字でプリントすれば編集部への申告枚数を(理屈の上では)2倍にまで水増しすることができます(原稿用紙体裁でなら規定枚数以内に収まる作品が応募要項指定の印字体裁にすると換算枚数大オーバーとなる現象の理由は「改行があまりに多い=箇条書きだから」なのです)。
 また一方では、「国語体力が極端に低下した現代の消費者はすかすかの箇条書きを好む」という需要もあるのかもしれません。文字がびっしりと書き込まれた高密度の文体は敬遠されるのでしょう。事実この箇条書き体裁の作品が受賞してしまうこともあり、選考上の不利にはつながらないともいえます。しかし、「記述体力・技量鍛錬」の見地からは絶対にお勧めできません。箇条書きは「ひとつの段落の中での文意の流れ」を構築する努力をしなくても書けてしまうため経験値の蓄積にならず、結局のところ、いくら書いても本物の記述力獲得につながらないからです。
 応募者の眼前には「国内ルールでたたかうことを潔しとするか否か」の選択肢が存在しています。
 『日本人は低身長(=未曾有の出版不況で本が売れない。なにより書き手も消費者も低レベル)だから、国内で試合をするときはバレーボールのネットの高さを50センチ下げよう(=原則や日本語の正確さなんかどうでもいいから、とにかく売れそうなもの、消費者の大多数を占める愚衆が好む内容・体裁の作品を書いてよこせ)』。
 それに迎合して「一時期出版社を儲けさせてすぐに消えていく小説のようなものライター」になるのか、それとも国際ルールの高いネット越しに堂々と打ち合える本物の作家をめざすのか……。
 いろいろな捉え方ができる箇条書きですが、ひとつだけ確かなのは「誇りを持った作家は絶対にこの書き方をしない」です。書店で手に取った小説本が箇条書きなら、たとえ芥川賞受賞作であっても「読むに値しないごみ」と判断してかまいません。 


●人物描写が足りません
 下読みをして意外だったのが「男性応募者の過半数、女性の場合ほぼ100%が登場人物(主人公)の外見・容姿を描かない」というものでした。男性については単純に「不注意、観点不足」と考えてもいいのかもしれませんが、女性の極端な数字(主人公自身を描くのが難しい一人称を除いても100%なのです)は安易に片づけられないように思います。
 女性応募者のほとんどが同じ女性(少女)を主人公とし、服装ではそこそこの描写が見られるのに、なぜか容姿だけは語られないのです。そこには共通する心理が存在するのかもしれません。しかし、読者にそれぞれの登場人物を識別してもらうには外見=人物の質感の提示が不可欠で、特に主人公には興味を誘うに足る容姿を与える必要があります。どのような美人なのかを簡潔、かつ効果的に描くには高い筆力を要し、それこそが応募者の腕の見せどころでもあるのです。
 「自分の分身を書いているうちは選考通過できない。読者の度肝を抜くような魅力的キャラを」と考えてみてください。さらに、大転換をという意味で男性を主人公とする作品の執筆をお勧めします。女性応募者による作品の類似性は多項目に及び、下読みには「事実上すべてが同じ作品」といえるほどなのです。「自動的に1次落選となる同じ顔をした応募作の長い列」から抜け出すには、書き方そのものを変えるしかありません。異質な男性を主人公とすることで、「客観視点」と「登場人物の心理に対する洞察力」が養えるはずです。


描くべきは説明でなく物語です
 上で述べた「同じ顔」を具体的にご説明しますね。
・主人公のキャラ設定が「ごく普通の女性(少女)」とされ、作者が主人公をかばう姿勢が見られること。物語の牽引役としてはあまりに力不足で、重大な事態に直面すると「もうなにも考えたくない!」と現実逃避しがち。
・会話体の分量が少なく、作品の大部分を主観記述(主人公の気持ち・考え・回想=説明)が占めていること。
・ひとつの会話(セリフ)に何行もの主観記述が付随していること。それを読み終わるころには前のセリフがわからなくなってしまい、結果として「やりとり・場面」が成立しない。
 以上の特徴を持った作品は「焦点が定まらず集中できない」という理由でひどく読みづらく、下読みに「ああ、またこれか」とため息をつかせてしまう作風といえます(「ふと○○は思い出した」が頻出する作品はたぶん選考通過できません)。そして、読みやすさ、すなわち読者の都合をまったく考慮していないことこそが、「自動的に1次落選」と申し上げる理由です。
 ただ、傾向が顕著ということは、それを外しさえすればいいともいえ、例えば以下のような書き方に変更すれば、「この書き手は違う」との印象を与えられると思います。
・主人公に積極的なキャラクターを与え、しっかりと行動させる(傍観者にしない)。
・地の文での主な記述対象を主観から客観(行動・表情・しぐさなどの描写)に切り替える。
・合間に描写をはさみながら会話体を一定回数連続させ、「ひとつのやりとり、ひとつの場面」を成立させる。
・どうしても必要、かつ分量のある説明や主観記述は、章(もしくは1行空けで区分されたブロック)の冒頭か末尾だけで書くようにする(解説と場面記述との混在を避ける)。
 これだけでも作品の顔はがらりと変わり、落胆とともに読まれることはなくなります。さらに「800字、なかには400字の指定さえあるあらすじを容易に書けるだけの、強固なストーリー骨格」を与え、気の利いたセリフまわしでセンスをアピールし、人物の質感を簡潔かつ効果的に描写できれば、いうまでもなく「1次確実2次も射程内」ということになります。
 以上が女性応募者における顕著な傾向ですが、一方の男性については歴史ものからカフカ風までと作品分野に幅があり、「描写すべき事柄を説明してしまう致命的な瑕疵」以外の目立つ傾向は特に見つけられません。
 ただ、日本語自体に問題を抱えた応募者は男性の側に集中していて、別の言い方をすると、女性応募者の多くは文章力だけを見れば1次通過レベルなのです。対象を絞った「傾向と対策」を上でお伝えしたのもそれが理由です。意識を転換しさえすれば大化けもあり得るわけですから。しかし、日本語レベルの低い一部の応募者に対しては、残念ながら「日本語の基礎の再確認を」としか申し上げられないのが現実です。
 最初は誰もが「自分に小説など書けるんだろうか」と不安いっぱいで臨むもので、その過程はとても苦しく、書き上げられた喜びは実際に経験したお客さまにしかわからない宝といえます。でも、それだけでは不十分なのです。読者の立場で、客観的に、「絶望力」をもって作品を眺められるかどうかが、選考通過の分岐点であるように思います。


校正を経ることで不必要なリスクが避けられます

(申し訳ありません、このブロックは宣伝でございます)
 いくつかの新人賞の要項に「誤字の目立つ作品は心証が悪くなる」と注意事項が明記されています。あまりに素朴な注意書きで、ちょっと拍子抜けといえなくもありませんが、これはいわば「人前に出るときは身なりをきちんとしなさい」と当たり前のことをいっているに過ぎず、逆説である「誤字がなければ高評価になる」は必ずしも成立しません。いくら着飾っても人間の本性がごまかせない――耐震偽装の首謀者たちを見ても「いったいどんな行為を積み重ねるとこんな卑しい顔になるんだ?」と唖然とさせるような容貌ですものね――のと同様に、たとえ誤字をゼロにできたとしても、作品の本質が変わるわけではないからです。
 ただし、基本的な表記ルールについての理解不足、初歩的な漢字の使い分けができていないなどの欠点が顕著だと、内容審査以前に重大なハンデを負ってしまうことになるのも事実です。さらに、数年前の某賞のように、最終選考不通過の理由が「前回さんざん注意したにもかかわらず誤字が多すぎる。なめてんのか」であるケースさえあります。応募側の誠意をはかる尺度として誤字の少なさ=丹念な推敲が用いられるのは否定できず、業界人の目にも妥当と映る水準の校正を施すのが無難なのです。
 当オフィスの校正をお試しになって「なんだ、この程度でいいのか」とお感じになったとすれば、それはすでに十分な推敲・校正力をお持ちだという証明になりますし、「赤字がこんなにいっぱい……」だったとしても、次からは同じミスを犯さずにすむ明確な執筆観点が得られます。
 よほど恵まれた境遇にあるのでないかぎり、年に何作も応募することはできません。一作ごとが勝負なのです。ならば、可能なかぎりの瑕疵つぶしを経た作品で臨むために一定額の経費を負担してみるのも、ひとつの方法なのではないでしょうか。誤字チェックだけにとどまらない「応募作に特化した広義の校正」のご利用を検討してみてください。

※「こう直せ」という赤字を大量に入れる『添削』は第三者による加筆となり、それを受けた作品は応募資格を失ってしまいます。一方、『校正』がおこなう赤入れの対象は明白な誤字のみで、その他については「この部分の構成(表現)に違和感あり」といった鉛筆での「指摘」にとどまります。5000〜8000字程度の報告書(現在は作成せず、作品原稿へのコメント挿入と、末尾の「まとめ」で代用しています)を通じて「この観点で手を入れるとさらによくなると思います」とアドバイスはいたしますが、実際の修整作業はすべて作者の手に委ねられ、応募資格を損なうようなことはありません。


オフィス・バベルとは?

ベテラン校正スタッフがたちあげたオフィスです 当オフィスの代表者・宮下耕一は丸々16年間大手版元の関連会社に勤務し、単行本・雑誌の校正・校閲を務めました。また、上で述べているように、下読み経験者でもあります。まさに適任?なのかもしれませんね。業務開始は2004年末、現在までの作業実績はおよそ280件、複数のお客さまがプロ・デビューされて――なかには超メジャー賞を獲られた方も――います。「無名の人間がなにをいっても相手にされないだろう」との認識から「1次通過」を掲げる当オフィスではありますが、現状では「1次を確実に通過できる実力」は、そのまま「最終選考到達の可能性」を意味するようです。
バベルの校正の特徴 誤字・誤用のチェックはもちろんのこと、当オフィスでは前述の観点から作品を閲読し、赤字や書き込みの根拠は作業報告書を通じてご説明いたします。優れた作品は「初めて書いたもの」である場合が多いです。「まだ書きはじめたばかりで……」という方も、遠慮なくご用命ください。
バベルに頼むとプロットを盗まれる? 殺伐とした現状を考えると、そのようにお感じになったとしても猜疑心が強いことにはならないと思います。お客さまのそんな不安を拭うために、当オフィスでは「実際の物品(CD-ROM)をご納品」のスタイルを採っています。つまり、作品原稿をデータでお送りいただいても、お客さまのお手許に「バベルが作業した」という明白な証拠が残るようにします。その証拠こそが抑止力(バーニーがマーゴに差し出したレクター博士のマスクといったところでしょうか)とお考えください。


※レンタルオフィス利用を取りやめたため住所・電話番号の表示ができなくなりましたが、コレクト便契約にはヤマト運輸担当者による現況確認(当オフィスのような個人事業の場合は自宅訪問)が必須であることをお伝えいたします。当方が不正を働いた場合は、捜査機関→ヤマト運輸の経路で迅速な追及が可能です。




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